自由への敗走、あるいは書くことのはじまりにむかってーー『ポケモン不思議のダンジョン』論

昔、書いたレポートを推敲してみました。論が脆かったり、いらん引用をしているのは若さゆえだから許してね!

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【序論】

 任天堂を代表するゲームの一つに「ポケットモンスター」シリーズがあげられる。「ポケットモンスター」シリーズは、初代が出てから二十年以上経った今でも、最新作がミリオンセラーを達成するなど色褪せない。

 そんな「ポケットモンスター」シリーズではあるが、その派生作品に「ポケモン不思議のダンジョン」という本家とは外れた世界観を持つ作品がある。

本稿で注目するのはそれだ。『ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊』(以下、本稿においては「空の探検隊」と記す。また、シリーズを総括する名称として「ポケダン」に統一する)における機能について考察したい。ついで、なぜ「ポケダン」がこんなに愛される作品になったのかを詳らかにする。

 そのために、まず『ポケットモンスターシリーズ』(以下、本稿においては「本家」と記す)との差異を簡単に示したい。

 「本家」のストーリーはシリーズを通してあまり差異がない。主人公は援助者(例えばオーキド博士)からポケモンをもらい、冒険の旅に出る。そこで新たなポケモンやライバルとの出会い、ジムリーダーや悪の組織との死闘を乗り越え、ポケモンリーグ制覇を目指す……。もちろん、シリーズごとに差異はあるが、大枠としてこのような構造があるはずだ。

 対して「ポケダン」シリーズはどうか。こちらもおおまかな筋は一緒だ。例えば『ポケモン不思議のダンジョン 赤・青の救助隊』(以下、「赤の探検隊」と記す)では「隕石の衝突」から世界を守るため戦うし、「空の探検隊」では「星の停止」を食い止めるために行動する。

 しかし、ある一点で異なる部分がある。それは、主人公の語りだ。「本家」では主人公の語りが排除されているのに対して、ポケダンシリーズにおける主人公は語るし、パートナーと確かな絆を結ぶ。「本家」にない「ポケダン」の謎と魅力はここだ。その謎と魅力を言語化するのが本稿の目指すべき地点である。

 なお、本稿における引用は全て『ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊』(任天堂、2009年)に依拠する。特に断りがない場合、引用部の傍点・傍線は全て筆者による。

 

【本論】

一、「越境」する主人公

 一章では「空の探検隊」における主人公の立ち位置について説明する。そのために、「越境」という概念を提唱したい。

ポケダン」には二つの「越境」が存在する。一つは、「人間」から「ポケモン」という「越境」、もう一つはプレイヤーから「動的主人公」への「越境」である。この「越境」とは何か?

 まず、前者における「越境」について説明する。

 

ようこそ! ここは ポケモンたちの せかいへ つうじる いりぐちだ! この とびらの むこうには キミのしらない さまざまな ぼうけんが まちうけていることだろう!*1

 

 引用文はゲームが始まる前の文章である。プレイヤーはこの後の性格診断に答え、それに対応したポケモンが主人公となり、ポケモンの世界へと参入していく。この瞬間、「越境」が行われるのだ。

 当たり前の話であるが、このゲームのプレイヤーは人間である。しかし、プレイヤーはゲーム内でポケモンになる。ここで注目したいのは「本家」との差異だ。「本家」ではプレイヤーが人間であり、そのためポケモンとの間に距離ができる。*2

 しかし、「ポケダン」においてはポケモンたちが人間のように喋ったり笑ったりする。ここに、「本家」にあるようなポケモンに対する「他者性」が排除されるのだ。

 そして、先ほど述べたようにプレイヤーから「動的主人公」という「越境」も行われる。「動的主人公」とは何か。夏目漱石研究の第一人者である小森陽一は『読むための理論』で「動的主人公」を次のように定義する。

 

ユーリ・ロトマンは、テクストの内と外の二項対立的空間に分け、内から外へ、また外から内へ、二項対立的世界の境界線を超える人物を「主人公」であるとした。つまり、テクストにおける事件とは「登場人物をして意味論的場の境界線を超えさせることである」のだ。そうすると主人公は動的な登場人物と不動的な登場人物に二分できる。動的な主人公は、境界線を横断し、題材的であるが、不動的な主人公は、あらかじめ分類された世界に固定され、境界線を越えることは禁じられ、無題材的となる。題材的人物は、時任謙作のように様々な試練を経ながら人格を変えていくような、筋を構成する主人公になりうる。しかし、無題材的人物は、三四郎のように、自分の周囲で他の人物が演じる事件を傍観する、視点人物的な主人公になる。*3

 

  引用部は小森によるロトマンの主人公についての考察を要約したものだ。そして、「ポケダン」の主人公は「動的な登場人物」に当てはまる。どうしてそう言えるかは、二章に場所を譲りたい。

 一方で「本家」における主人公は「無題材的人物」である。なぜならば、主人公の語りが徹底して排除されているからだ。「本家」における主人公は現実におけるプレイヤーと地続きであり、ポケモンとの出会いを通して感情や価値観が変化するのは主人公ではなくてプレイヤー自身なのである。つまり、主人公はプレイヤーの単なる現し身に過ぎず、「内面」の描写がない「無題材的人物」なのだ。

 

二、刻印される英雄の証

 二章では、「ポケダン」における主人公が、なぜ「動的な登場人物」と言えるかを明らかにしたい。

 そのために、絶対に気に留めなければいけない考えが一つある。すなわち、「ポケダン」における主人公もまた、最初は「無題材的人物」であったということだ。なぜそう言えるのだろうか。これは次の引用文を見てほしい。

 

(たしかに ゴンベに なっている!)

(……でも どうしてだろう? なにも おもいだせない……。)

 主人公は物語開始時に自らの記憶を失っている。この点で主人公とプレイヤーは結ばれる。なぜならば、プレイヤー自身も「空の探検隊」と言う世界で過ごした過去がないからだ。さらに、プレイヤーも結局は人間でないという部分で主人公と結びつく。このように、最初は主人公がプレイヤーの地続きにある「本家」の作りを思わせる。しかし、この構造は破綻する。きっかけはジュプトルの台詞だ。

 

オレと 主人公は…… ほしのていしに ついて いっしょに ちょうさ してたんだ。

 

このように、プレイヤーには存在しない過去が、主人公に植えつけられてしまう。そして、「星の停止」を防ぐために、主人公は自らの消滅という道すら選ぶ。ここに、主人公とプレイヤーが地続きである方程式が崩れた。

 

一見すると、「空の探検隊」は臆病だったパートナーが徐々に成長していくのに対して、主人公は成長していないかのように見える。だが、実は「主人公がプレイヤーという権威に反抗して個性を手にしていくある種の「父親殺し」を成そうとする物語も同時に進行しているのだ。

しかし、この「父親殺し」は完遂しない、それが「空の探検隊」、いや「ポケダン」の悲劇である。

 

 三、自由への逃走、あるいは書くことのはじまりにむかって

 「ポケダン」は本編が終了した後も続いてしまう。そこにストーリーはなく、主人公もパートナーも定型文で会話するだけ。世界は永遠に閉じられてしまう。

 こう書くと、「本家」においても物語が閉ざされてしまう、そんな指摘もあるかもしれない。しかし、「本家」のポケモンで注目したいのは、主人公の語りが徹底して排除されている点だ。「本家」では、主人公は他者に対して何を思っているのかがわからない。

 対して、「ポケダン」は主人公とパートナーに対する友愛の感情が明確に描写されている。しかし、物語終了後はただ定型文の会話を繰り返すだけ。彼らは成長せずに永遠と同じ日々を過ごす。ここにきて、「主人公」という自ら決断を下すような描写が見えなくなり、ただプレイヤーに操られる盤上一つの駒になる。「主体」を手にしたカタルシスから成る物語であるのにも関わらず、だ。

 だからこそ「赤の救助隊」は第一部終了後の評判が著しく悪い。なぜなら、パートナーは他のポケモンと同じような定型文しか話さず、ストーリーから排除されてしまう。そして、この問題は後のシリーズも乗り越えられていない。なぜならばゲームという構造上、物語が永久に続くことはできない。それは他のどんなゲームにも課せられた使命である。

 では、プレイヤーはこの悲劇を受け入れるしかないのか? いや、そうではない。「ポケダン」の魅力を消さないように動き続けるプレイヤーがいる。それは、二次創作という方法論に現れている。

 「ポケダン」における二次創作が一定の需要(例えば閉鎖されたにじファンというサイトでは、全盛期百個あまりの二次創作があった)があるのは不思議ではない。物語の終焉という悲劇を知ったプレイヤーの一部は書く、いや書かずにはいられなくなる。*4

 

最後に舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる』から一節引用しよう。

 

僕には僕の祈り方があるのかもしれない。それが小説を書くことなのかもしれない。僕は僕のベストを尽くさないといけない。もっと面白い小説を書きたいと思い、それに向けて頑張ることが祈りとなればいい……というのが僕の今の祈りだ。*5

 

私は書かずにはいられない。それこそが「愛」であり「祈り」なのだ。

 

                                     (終)

*1:ポケモン不思議のダンジョン 空の探検隊』(任天堂、2009年)

*2:ポケットモンスター ブラック・ホワイト』(任天堂、2011年)のNを参照してほしい。彼はポケモンと会話ができるトリックスター的な存在として描かれ、人間とポケモンの埋まらぬ溝に苦悶する。この作品全体がポケモンと人間の関係性というテーマに貫かれていることは今更言うまでもないだろう

*3:石原千秋・木股知史・小森陽一・島村輝・高橋修高橋世織『読むための理論』(世織書房、1991年)

*4:無論、全員がそう考えているとは言わないし言えない。そうであるかもしれないという妄想に近い論だ

*5:舞城王太郎好き好き大好き超愛してる。』(講談社、2008年)